述井庸治に

マスターとの話

 
 私達は、雀荘の近くの建物の2階にある喫茶店にやって来た。
 そしてテーブルにつくと、ウェイトレスが注文をとりにくる。私たちはコーヒーを2つ注文した。
 ウェイトレスの置いていったオシボリで手を拭きながら私は彼に尋ねた。
「マスター、どうしました?」
「いやぁ、私(わだし)も年貢の納めどきでやんすよ」
 彼は、何か諦め切った表情で伏し目がちに私に言った。
「何があったんですか?」
 私は、何かまた悪いことをして、それがバレでもしたのかと思った。
 その時、ウェイトレスがコーヒーを私達のテーブルに運んで来た。
 彼はコーヒーにミルクを入れスプーンでかき混ぜながら、おもむろに私に言った。
「実は、宣告されましてなさ」
 私は、「何を?」という顔をして、彼を見た。
「いやぁなさ、このごろぉ身体の調子が悪く、検査してもらてだんでやんすが、一昨日(おととい)、医者から膵臓ガンだと言われましてなさ」
「えっ、それで?」
「あと3ヶ月と、医者は言うんでやんすよ」
 落ち着いて話しているが、この事を自分ひとりで抱えていく勇気が彼にはなかったようである。
「それで、奥さんはそのことを知ってるんですか?」
「ええ、女房(あっぱ)は知ってます。あとは先生にしか言てやんせん」
「何故、私に」と思いながら私は彼に尋ねた。
「それで、どうします?」
「どぉすたらいんっげなさ? なにしろ突然で……」
 彼は残された命をどう生きて良いのか分からない。それで私のところへ。
「マスター、私の考える生き方について話してもよろしいですか?」
「ぜひ、お願いすます」
 と言い、彼はさらに続けた。
「3年ほど、先生とお付き合いさせてもらいやんすたが、先生の生き方なんか他の人と違るんでやんすよなさ。聞かせてもらたげやんすか?」
 私はうなずき彼に言った。
「ところでマスターはソウルつまり魂の存在を信じますか?」
「えっ、ソウルっげ?」
 突然の予期せぬ質問に彼は戸惑いを隠せない。そして答えた。
「私(わだし)は、神、仏てへるものをあまり信じたごどはなさだ。んだとも、今は信じて気がすます」
「それなら、お話しましょう。この話はソウルを信じない人には意味のない話ですから」

《鳥に話す父》
 世の中には、ソウルの存在を信じる人と信じない人、2種類の人がいる。私はソウルの存在を信じている。
 それは、私が4歳の時にした体験からくるのかもしれない。
 私の母が私と2歳になろうとしている妹を連れ、新潟の母の実家に帰っていた。そこで、妹が風邪をひきそれを拗らせ亡くなった。
 突然の愛娘の死に父が東京から駆けつけて来た。
 そして妹の葬儀、その葬儀の最中に悲嘆にくれる父のところへ1羽の鳥が飛んで来た。そして父の側を離れない。父がその鳥に何か話している。私の記憶の中に鳥に話をしている父の姿が残っている。
 子供の頃、叔父、叔母にこのことを話すと、彼らは驚き私に言った。
「おまえ、それ覚えているのか?」
「うん」
「それは、寺の住職がおまえの父さんに『その鳥はあなたの娘。あなたが娘を諦めきれずにいるので、娘は成仏できない。成仏するよう諭してあげなさい』と言い、おまえの父さんがその鳥に話していたのだ。そして、父さんの話を聞いたその鳥は安心したように、遠くへ飛んで行った」
 さらに、叔父、叔母は私に言った。
「それじゃ、お前が妹を抱きしめ、『起きて、起きて』と叫んでいたのは覚えているか?」
「ううん、覚えてない」
「皆、そんなお前をみて涙したんだよ」
 私は、その事は全く覚えていない。記憶に残っているのは、鳥に話しかける父の姿だった。
 たぶん、この体験が私にソウルの存在を信じさせるのだろう。

 《マスターとの話》
 空になったコーヒーカップをソーサーに置き、私は話を始めた。
「マスター、『死』とはなんだと思いますか?」
「『無』っげなさ。なんもかもが終わるてへるごどっげなさ」
これから自分が死んでいく。何となく、どうしようもないという雰囲気が漂っている。
「それでは『生』つまり誕生とは、何だと思いますか?」
しばらく考え、彼は言った。
「うーん。今まであまり考えたごどがなかったでやんすなさ」
 そこで私は応えた。
「私は、人間はソウルとボディから出来ていると思います」
 彼は、何となく実体のない漠然とした言葉を聞いているような様子だった。
「うーん。ソウルとボディっげ……」
「ソウルとは魂のこと。そしてボディとはこの体、つまり肉体のことです」
 と私は言い、さらに話を続けた。
「『誕生』とは、ソウルがボディを手に入れること。そして、そのボディがソウルを去ることが『死』だと思います」
「うーん……。『死』とはそういうものっげ」
 今まで、「死とは『無』である。だから死が訪れるまで楽しく過ごせばいい」と考える彼にとって、「死」というものの全く新しい概念だった。
「そうです。死とは『ソウルの完成』です。ボディが去るまでの間にソウルがどれだけ成長するかということが大切です」
「死がソウルの完成」という言葉を聞いて、今までうつむき加減に私と話をしていた彼が、顔をあげ私の顔をじっと見つめた。彼は身近に迫った死について真剣に理解しようとしている。
「先生、『ソウルの完成』とはいてどぉいうごどっげ?」
 私は答えた。
「この世に生を受けるということはソウルがボディつまりこの世での修行着を手に入れることです。そしてその修行着を着て、ソウルは『痛み』『苦しみ』さらには『悲しみ』を学びます。また、『喜び』『楽しみ』何か食べた時の『美味しさ』もすべてボディを通して感じる事が出来るのです。もしボディがなくソウルだけだったら、どうなると思いますか?」
「えっ、『身体が無い(なさ)』てへるごどでやんすなさ」
 彼はしばらく考え、そして答えた。
「確かに、殴られるごどもなさから痛さが分からなさ、食べるごどがなさから美味しさ不味さも分からなさ、また女を抱くごどもできやんせんなさ。お金を持ていても意味がなさ」
 そこで私は彼に言った。
「ボディはこの世での修行着、ボディを持たないソウルは痛みも苦しみも悲しみも分からない赤ん坊です。ボディを持つことによりソウルの修業が始まります」
「ソウルの修行っげ……」
「そうです。ボディを通して、人の痛み、苦しみ、悲しみを理解する事ができます。そこから人に対する『思いやり』が生まれます。
思いやりとは人を思う気持ち、人を痛めない、苦しめない、悲しませない、人に喜びを与えることです」
「思いやりなさえ。私(わだし)には自分(ずぶん)に対する思いやりはあても人に対する思いやりはなかったかもしれやんせん」
 と彼が言った。
「思いやりが理解出来ると、自分がその思いやりを受けた時、感謝の気持ちが生まれます。この『思いやり』と『感謝の気持ち』によりソウルが成長します」
「うーん。思いやり、そやて感謝の気持ちっげ……」
「私は宗教家ではありませんが、キリスト教の『愛』仏教の『仁』とはこの『思いやり』だと思います。深く大きな『思いやり』を持つこと、それがソウルの修行です」
「うーん。生きるてへるごどは修行っげ。私(わだし)は今まで人様の痛み苦しみは考えなかったかもしれやんせん。自分(ずぶん)の喜びと楽しみだげを求めて、自分(ずぶん)が痛まぬように苦しまぬように生きてきたような気がすます」
「たぶん、マスターは人を痛め苦しめてきたんでしょうね。それではソウルは成長しません。死とは、ソウルがこの世での修行を終え修行着を脱ぐ時、つまりボディがソウルを去る時です。それが『ソウルの完成』です。その時、ソウルがどれだけ高いレベルにあるかが大切です。そこから永遠の命が始まりますからね」
「ソウルのレベル、永遠の命、今まで考えたごどがなかったでやんすなさ」
「この世での修行の期間は60~80年くらいです。最近では100歳を超えて生きる人もいます。けれど100年なんて永遠と比べればほんの一瞬です」
「うーん……」
しばらく考え、マスターが私に言った。
「先生、だども私(わだし)、悪い事ばがりしてきたから」
「マスター、だけど人は殺してないんでしょう?」
「ええ、人殺しはしてやんせんげれど」
「マスター、善と悪とは同じエネルギー、ただベクトルが違うだけです」
「同じエネルギー? ベクトルが違う?」
「ええ、愛と憎しみに似ています。例えば、愛している人に裏切られると、その憎しみは愛の大きさと同じ大きさの憎しみになります。また、憎しみが愛に変わると憎しみと同じ大きさの愛になります。それは愛と憎しみは同じエネルギーだからです」
「そったらもんっげなさーー」
 コーヒーを飲み終えた彼は、グラスにはいった水をゆっくりと飲み干し私に言った。
「先生、3か月で自分(ずぶん)のソウルのレベルを上げるごどが出来やんすかなさ?」
「出来ます。マスターの場合はただベクトルの方向を変えるだけですから」
「やてみますべかなさ。先生、手伝てもらたげやんすか?」
「もちろんです」
 マスターの何か諦めきった表情が明らかに変わっていた。与えられた3か月を生きようとしている。目の前に迫った死に、「無」ではなく、何か意味を持たそうとしているのだろう。
 私は右手を彼の前に差し出した。彼は両手で私の手を強くにぎった。私も両手で彼の手を強くにぎり返した。そして彼に言った。
「やってみましょう!」
それを聞いて、彼は深くうなずいた。彼の顔には笑みが浮かんでいた。