述井庸治に

最期の仕事

 告知されてから3カ月が過ぎた。
「先生、聞いてくださいよ。昨日風が強かったでしょ。マスターったら歩いていて、風に吹き飛ばされ転んだんですよ」
 彼の妻が寂しそうに笑いながら私に言った。ガタイの良かった彼が風に吹き飛ばされた。
 今の彼はやせ細り骨と皮だけである。もちろん今は、雀荘のすべての客が彼が癌に侵されもう長くないということを知っている。
 彼の顔をみると、オデコと鼻のてっぺんに絆創膏をつけている。
「マスター、どうしました?」
 と、私は彼に尋ねた。
「いやぁ、先生、転んでしまいやんすた。お恥ずかしい話だ」

 今日は仕事が早く終わり、私が雀荘に顔をだすと、1卓は立っていたが、私がプレイする為には、あと2人来なければならない。麻雀は4人でやるもの。1つの卓は既に4人でプレイしている。私とマスターを入れてあと2人来るのを待たなければならない。
「先生、ちょぺっと私(わだし)に付き合てくれやんせんか?」
 とマスターが言った。
「いいですよ」
 そして私達は近くのバーに飲みに行った。もちろん、彼はお酒を飲めない。ビールを1杯だけグラスに注ぎ、そのグラスをテーブルの上に置いた。あとは私が飲み、彼は私の話を聞いている。
「先生、また例の歌、歌てくだせぇ」
 彼は、「吾亦紅(われもこう)」という歌が好きだった。私と飲みに来るといつも彼は私にその歌を歌って欲しいと言ってきた。カラオケは私の趣味、今でもこの歌を歌うと彼のことを思い出す。
 今の彼は、お酒は飲めない。ただ私とこうしていることを楽しんでいるようだった。
 私は彼に言った。
「マスター、お店に飾ってあるあなたの描いた絵を私に一枚くれませんか?」
 彼は油絵を描くのが趣味、彼の描いた絵がいくつか雀荘に飾られている。
「あなたは、もう間もなく逝く人です。私達は親友になった。私はあなたのことをいつまでも覚えていたい」
「先生、それはダメだ」
「えっ、なぜ?」
「絵を描くてへるごどは、そういうものではなさだ。雀荘に飾てある絵は先生には差し上げやんせん。先生、私(わだし)は先生の為に絵を描きます。親友の為に私(わだし)の最後(げっつ)の絵を描きます」
「マスター、そんな体で絵が描けるの?」
「先生、描きます。先生は私(わだし)にまた生きる目的を与えてくれやんすた。私(わだし)はその絵を描く為にまた生きるごどが出来ます。んだども先生、1つだげ条件がありまし」
「何ですか。マスター?」
「絵が出来たら先生にお渡しすます。但し、その時私(わだし)と一緒にお酒を飲んでくだせぇ」
「分かりました。マスター、楽しみにしています」
 それから、1ヶ月半の月日が流れた。死の宣告を受けて4カ月半、マスターから私に電話がはいった。

「先生、絵ができやんすた。先生にお渡しすて。先生、約束どおり私(わだし)と飲んでいだだげやんすか?」
「もちろんです。有り難うございます。いまからお伺いします」
 私は、彼の雀荘に行った。そして2人で近くのレストランに来た。
 絵は大きな風呂敷に包まれていた。そして、その風呂敷の結び目をとくと、中から銀色の額縁に入った1枚の絵が現れた。私達はその絵をテーブルの横の壁にたて、注文した1本のビールを、2人のグラスに注いだ。
「先生、これは私(わだし)の故郷を描いだものだ。私(わだし)は若いころから悪いごどばがりしてきやんすた。先生も御存知のようにくさい飯も食べやんすた。八戸の故郷には帰りたくても帰るごどができやんせん。げれど、いつか帰りてと思ていやんすた。んだども、もう帰るごどはなさでやんすべ」
 心なしか彼の目が潤んでいた。
「この絵は、子供の頃からずっと自分(ずぶん)の心にある故郷を描いだものだ」
その絵は、季節は冬、小高い丘の上にあり木々に囲まれた一軒家。遠くに山をいただき、屋根の上、そして地面には雪が積もっている。北国のどんよりと曇った空、そこからほのかに茜色の光が漏れている。
 私はその絵を見ながら彼に言った。
「マスター、この雪の白さは、今のマスターの心ですね。そしてこのどんより曇った空からわずかに漏れるこの茜色の光はマスターがこれから行く天国なんですかね」
 彼は、この世での最後の仕事を終えた安堵感からか満足げにニコニコと微笑みながら私の話を聞いている。
「マスター、私はこの絵を私の教室に飾ります。そしてあなたとのことを私の生徒たちに語り続けていきますよ」
「先生、有り難う。先生と出会えてほんとによがた」
 そして彼は右手を私の前に差し出した。私は彼の右手を強く握りしめた。彼の手を握るのはこれが2度目である。僅かの間に彼の手はとても小さくなっていた。